この本について 原研哉氏について

原研哉氏は、武蔵野美術大学教授、株式会社日本デザインセンター取締役のグラフィックデザイナー。無印良品、長野冬季オリンピックの開会式・閉会式プログラムなど業績は多岐にわたる。日本的な感性を生かしたデザインが特徴とされている。
『デザインのデザイン』はそんな原氏が「デザインってなに?」という問いに真正面から挑んだ著作。「デザイン」をあえて定義するとすれば「意匠」などと訳されるが、デザイン本来のあり方はもっと本質的なものであるという考えから、自身の経験を元に「デザイン」全体に挑んだ作品。
位置づけとしては「デザインの入門本」とされているが、「もの(プロダクト)の見方について創作者側から解説を行った本」といったほうがしっくりくる。ものの見方が変わります。
サントリー学芸賞芸術部門授賞作。
- デザインのデザイン
-
- 著者: 原 研哉
- 発売元: 岩波書店
- 価格: ¥ 1,995
- 発売日: 2003/10/22
「デザイン」という現象の発生
デザインの発端はイギリスの産業革命にある。
手作業が長い時間をかけて磨き上げてきた造形が機械によって浅薄に解釈され、捻じ曲げられ、異常な速度で量産されていった。それによって何かが失われてしまうような危機感と美意識の痛み、ものの周辺に息づいている繊細な感受性を踏みつけにして進む機械生産に対するブーイングが起きた。
このような、生活を激変させる産業のメカニズムの中に潜む鈍感さや不成熟に対する美的な感受性の反発が、デザインの発端となる。
「繊細な生活の美意識の痛み」
良い悪いではなく、良い面も悪い面もあった。それらの結果として今の生活があるということには自覚的になるべきだけれども、置き去りになってしまっていたものがあることも知るべき。今の時代もそう変わらない気がする。
機械→コンピュータに置き換えたりしてみる。
情報化時代、あるいはこれからのデザイン
情報テクノロジーの著しい進歩による大きな動乱の中、産業革命に匹敵するパラダイムの変革が起きると人々は確信している。
ある部分では、変革は既にその大半が終わっている。ある部分では、変革はまだまだこれからだと思う。過渡期だからしょうがないんだけど、歪(いびつ)であることは確か。
コンピュータは「道具」ではなく「素材」である(ジョン前田)
“Simplicity is about subtracting the obvious, and adding the meaningful.”
「シンプルにするには、わかりきったことを取り除き、意味があることを付け足すことだ。」
ある素材を優れた素材として活用するには、その素材特性を極限まで純化するプロセスが必要。粘土の中に金属片が混じっていては思い切りこねることができない。
コンピュータテクノロジーの現在は、手を血だらけにしながら粘土をこねているような状況。
そうした無理な状況から生まれてくるものが、生活に充足を生むとは考えにくい。
ヴァーチャルリアリティに向けた認知科学の領域で、視覚以外の「ハプティック(haptic)」な感覚、つまり触覚を中心とした繊細な諸感覚が注目されている。
視覚・聴覚のみでは十分なリアリティを再現できないことがある(リアリティとは観測者の脳内で再現されるものとする) この部分の差異を埋める感覚を、著者はHapticと呼んでいる。対訳としては「触覚」だけれど、その部分は触覚に限定されるべきではない。
たとえば五感っていうのは、感覚の受容器として役割を人間のパーツに対応づけて説明しやすくしたものだけれど、そもそもの感覚は五種類ではない。指先でタワシを触ったときのチクチクする感じと、体の上に重いモノがのしかかっているときの圧迫される感じは、どちらも触覚なんだけれど、やっぱり別物として考えようよって話(たぶん)
関連:http://www.kk.iij4u.or.jp/~kbhiromi/HTML/haptic.htm
新奇なものをつくり出すだけが創造性ではない。見慣れたものの中に未知なるものを再発見できる感性も創造性である。
「認識を肥やす」
ひとつは「大量生産、コンピュータ、情報のディジタル化などによって失われた感覚を、我々の手に取り戻そう」というアプローチ。動機としてもわかりやすく、説得力がある。
もうひとつは「新しいテクノロジーや手法によって、今までの生活では感じることのできなかった/気づくことができなかった感覚を提供しよう」というもの。
どちらが優れているというものではない。ただ、後者は意識するに値するはず。個人的には、世の中の流れとしては前者を進めてきた感じがあるけれど、その結果ちょっと行き詰まり感もある。テクノロジー的にリッチな人とそうでない人との差がすごく激しくもなってきている。
Re Design展
トイレットペーパーやマッチといった極めて日常的な物品について、さまざまな分野のクリエイターに依頼してデザインをやり直してもらうという展覧会。ただしこれは優れたクリエイターによる日用品の再提案ではなく、従来のデザインと新しく提案されたデザインとの「差異」の中にデザインの本質を浮かび上がらせることを意図している。
以下には個人的に心が惹きつけられた作品を二つ紹介します。
「坂茂がデザインしたトイレットペーパー」
芯が四角いトイレットペーパー


丸い芯だと紙はスルスルと引き出されるが、四角い芯では引き出すときにカタカタと抵抗がかかる。必要以上の紙を供給しない設計になっていると共に、資源を節約しようというメッセージも一緒にそこに発生する。丸いトイレットペーパーよりも、梱包、運搬の際の省スペース性に優れる。
真ん中を四角にするだけで、これだけの変化が起きる。
これは世界中のトイレットペーパーを四角くしようという提案ではない。
トイレットペーパーの丸と四角との差異に生じる批評性こそが狙い。
「深澤直人のティーバッグ」


持ち手の部分がリング状になっており、リングの色が紅茶の飲みごろの色と同じになっている。これはこの色になるまで紅茶を入れなさいという指標ではない。しかし、長い間これを使っているうちに、紅茶の色とリングの色の関係を次第に意識するようになるはずである。自分はリングより濃いほうが好きだとか、今日は薄めに入れてみようかという具合に。
つまり色の意味を規定しないけれども、そこに意味が発生するための用意はしておく。
それが何かをアフォードする潜在性をデザインしておく。
完成度も高い。っていうかこれ普通に製品化してほしい。
情報の存在感
紙という素材はメディアとしてずいぶん重い役割を背負わされてきた。非常にニュートラルなメディア。もはや我々にとっての紙はメディアというよりは「無意識の平面」である。
モニタースクリーンが身近に置かれるようになり、紙の素材としての性質や魅力を考慮することなくペーパーレスと叫んでしまった。電子メディアが出てきたことによって、逆に紙はようやく本来の「物質」としての魅力を発揮することが許されるようになったのでは。
情報というものについて、大量にストックしたり高速で移動させたりという機能に注目してしまいがち。
個人に対しての情報というものの関係を考えると、個人がその情報をいかにじっくりと味わえるかという点が重要になってくる。書籍に関するならば、適度な重さや手触りを持つ素材を用いて表された情報の方が、小さく格納されて存在感の希薄になった情報よりも人に心地よい使用感と満足をもたらせるかもしれない。
無印良品で目指したもの

無印良品では、これ「が」いいではなく、これ「で」いいという心地よさを目指した。
その上で、「で」のレベルをできるだけ高い水準にもっていきたい。
「が」というのは個人の意思がはっきりしている。近代における「自由」や「個性」といった価値観に近接した考え。一方で「が」は時とし執着、エゴイズム、不協和音を生む。
消費社会も個別社会も「が」で走ってきたが、その結果として本質的に行き詰まりつつある。
「で」の中に働く「抑制」や「譲歩」、「一歩引いた理性」を評価すべきであり、
「で」は「が」よりも一歩高度な自由の形態ではないだろうか。
欲望のエデュケーション
メーカーのマーケティングは市場にある顧客の欲望を非常に高度にスキャンできるようになった。日本車には海外の車と比べて美意識や哲学が足りないという批判がある。たしかに一部ヨーロッパの車には生産者の強い自己主張と意欲を感じる。
日本車がおとなしく見えるのは、結局のところ日本人の車に対する欲望の水準の結果である。
センスの悪い国でマーケティングをやればセンスの悪い商品がつくられ、その国ではよく売れる。
センスのいい国でマーケティングをやればセンスのいい商品が作られ、その国ではよく売れる。
それでもよかった時代もあったが、流通がグローバルになり、センスの悪い国にセンスのいい商品が入るようになった。
センスの悪い国の人々は入ってきた商品に欲望を抱くだろうが、逆は起こらない。
ここでの「センスの良さ」とは、それを持たない商品との比較において一方が啓発性を持ち他を駆逐していく力のこと。
つまり問題はいかに詳細にマーケティングを行うかということではなく、対象とする市場の欲望の水準をいかに高水準に保つかということを意識し、そこに戦略を持たないと、グローバルに見てその商品が優位に展開することはない。
コンビニで販売されているようなもの一つひとつにエデュケーショナルな効果があり、我々は毎日こういったものを通して欲望を教育されている。高性能なマーケティングは、誰しもが持っている怠惰な方向に傾きがちなユーザーの性向を正確にキャッチする。それを商品化し、顧客の本音に寄り添った商品が売れていく。
ある種これはマーケティングを通した生活文化の甘やかしであり、文化全体が怠惰な方向に傾いていく危険性をはらむ。
ヨーロッパ型のブランドがある特定の個性を強い意志で保ち続けるのに対して、日本の日用品はマーケティングの反復によりどんどん怠惰でゆるみのある商品に変化していく。結果として、日本の生活文化がコンビニやスーパーでの買い物と、ブランドショップでの買い物に二極化していく。
これからの経済は、生産技術の競争はもちろん、市場に潜在する文化レベルでの競争にある。それぞれの文化や市場から、いかに他の市場をインスパイアできる製品を生み出せるかが重要になる。
万博の話
愛知万博の総合デザインをやったが、受け入れられずボツにされたという話 (´・ω・`) この説話も、文化の甘やかしの具体例であるといえるだろう。見た目にウケがいい科学技術を押し出したものではなく、「日本だからできる」「今の技術だからできる」もう一つ高次元の科学と自然の融合をテーマとして押し出した提案で、すごく面白いんだけれど本筋とはズレがあるので省略。本読んでください。
個人の意見としては、ここでボツにされていたような万博なら、行ってみたいと思えたかもしれない。
日本のデザイン
1000年を超える文化の蓄積の上に、300年の鎖国を加えてその独自性に磨きをかけた。明治維新はこの純日本ともいえる江戸文化を思い切って西洋化へ転身させた。敗戦の後には一気に欧米化が進み、高度経済成長を経た。
日本の近代史は文化的にみると傷だらけであるが、自国の文化を何度も分裂させるような痛みや葛藤を経てた日本だから到達できる認識があるはず。

地勢的に見ても日本の位置は特殊である。
世界地図を90度回転させ、ユーラシア大陸をパチンコ玉に見立てると、一番下の受け皿の位置に日本が来る。これ以上東へは進みようがない。
ローマからの文化の伝承は、一方は北の方(ロシア側)へ、一方は南(ペルシャ・インド)へ向かいながらも、最終的には日本に落ちてくる。これほどまでに世界に対してクールな構えを持てる場所はない。(最新・世界地図の読み方 (高野 孟))
様々なルートから多様きわまる文化を受け止める日本は、相当に煩雑な文化のたまり場であっただろう。それら混沌を引き受け続けることによって、逆に一気にそれらを融合させる極限のハイブリッド、究極のシンプルに達した。何もないことによって全てをバランスさせようという感覚。
これが世界的にも特殊な日本文化のシンプル志向や、空っぽの空間にぽつりとものを配する緊張感、数寄、寂、間などというセンスの土壌になったのではないか。
「何もない」ということが価値になる。
これからしばらく、日本はにぎわいと活況を呈する中国をそのすぐ脇で眺めることになる。日本はこれに影響を受けて浮足立ってはいけない。
高度成長は疲れを知らない青春時代のようなもので、日本は既にその青春を経た国である。経済も文化も成熟の時期にさしかかろうとしている。「異国文化」「経済」「テクノロジー」という世界を活性化させてきた要因と、自分たちの文化の美展や独自性を相対化し、そこに熟成した文化圏としてのエレガンスを生み出していくことをはっきりと意識する必要がある。
- デザインのデザイン
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- 著者: 原 研哉
- 発売元: 岩波書店
- 価格: ¥ 1,995
- 発売日: 2003/10/22
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