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3月 08

ウォッカと眞露とピンク色のカーテンと彼女

 本屋に行った帰りに、ウォッカと眞露を買った。ライムジュースを買うのを忘れた。買ってから、もう半月の間に引っ越しの準備をしなければならないことなどを思い出す。荷物にしたくはないので、飲みきらなければならないだろう。まあ飲みきるんだろう。ああ、ライムジュースがあればなあ。

 わずかな段差に歯を食いしばる。「君はいつも薄着だ」と言われたいつかのことを思い出す。自転車の前かごで酒瓶をガッチャガチャ鳴らせていると、まるで自分がどこかへ向かっているような気分になる。自分がどこかへ向かって行けるような気分になる。ローソンの青が僕を突き刺し、習慣のような自然さで道路の対岸に目を向ける。

 駅前のローソンを通りかかるとき、僕はいつも道路を挟んだ向かい側のアパートの、その二階のベランダをちらっと見る。ちらっと見るたびに、ちらっと見た自分に気づき、少し楽しい気分になって、口を閉じて自転車を進める。薄いピンクのカーテンが部屋の照明に透ける光景をバックに、ベランダで煙草を吸うシルエットだけの彼女を見たことは、結局一度だけだった。

                          ☆

 四年ほど前のこと。小学校来の友人らと、深夜に閉まった釣具店の駐車場で楽しいお酒を飲んでいた僕たちは、パトロールのお巡りさんに追い払われてこのローソンまでやってきた。ひとりだけ店内には入らず、外でぼんやりしていた僕は、道路の対岸にあるアパートの、その二階のベランダで煙草を吸う彼女を見つけた。部屋からの逆光でシルエットだけになった人影は、僕にはすごく、ものすごく魅力的に見えた。とにかく僕は彼女を見ていて、そして彼女の方も僕を見ているという妄想があり、それが妄想だと気づきながらも、それを確信に変えることができるほどの熱量がそこにはあった。30秒ほどだった気もするし、5分くらいだったかもしれない。長いと言うには短すぎ、短いというには長すぎるその隙間で、僕は彼女と何かを共有したような気になった。僕らは妄想の中で素敵な日常を過ごした。花畑の中で、ひとつの花も踏むことなく踊ることだってやってのけた。彼女が口元へ腕を運び、そしてまた戻す。ワンテンポ遅れて、白いモヤが宙を舞う。

 しかしそんな妄想の日々は打ち破られる。ローソンから友人が出てきて僕に「おまたせ」と言った。「ほな行こか」と。僕は、対岸のアパートの、ピンクの部屋の彼女を見た。何かやるべきだ。俺は何かをやるべきなんだ。具体性の欠片もないが極端に高い熱量のせいで実態を持った衝動が僕の脳をドライブした。そうして僕が起こした行動は「バイバイ!」と大声を出し手を振ることだった。お別れだ、見知らぬ恋人よ。

 友人が不思議そうに「知り合い?」と訪ねた。「初対面」と僕は答える。笑いながら。そのとき、彼女が気怠そうに手を振る姿が目に入った。彼女が気怠そうに手を振るシルエットが目に入った!彼女が!気怠そうに!手を振った!僕の!バイバイに!答えて!手を!

手を振った。
ああ、僕は死ぬんだなと、そのとき思った。

                          ☆

 そう、それはもう四年ほど前のことで、そこから派生したいろいろな妄想が僕を形作りながらも、ローソンの向かいのアパートのあの部屋にライトが付き、透けたピンクのカーテンが人影を照らした場面に再び出会うことは、結局一度もなかった。きっと、もういないだろう。そして僕も、半月後の引っ越しのことを思い出す。ガチャガチャとなる酒瓶のせいでハンドルを握る手に力が入る。ウォッカを何で割ろうか考える。気を利かせたシャッフルモードの iPod がゆらゆら帝国の『ハチとミツ』をターンテーブルに載せた。

偶然目と目で通じ合ったまま そのまま今でも夢中さ
君の微妙な指の動き 君の異常な白い唾液
空けた口早く閉めなよ 濡れた指早く拭きなよ
揺れるカーテンの裾が気になるぜ とても気になるぜ すごく気になるぜ

あっ今動いた あっ今止まった あっ今気づいた あっ今笑った
あけてみようか 君の頭 あててみようか? 今の気持ち

– ハチとミツ / ゆらゆら帝国

                          ☆

そういう体験が万人にあることに気づき、僕が『人にはそれぞれ事情がある』という真島昌利のアルバムタイトルを座右の銘に据えることを決めたのはもうしばらく後の話。

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posted on 2008-03-14 (金) 0:32 | Tags:

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