深く深く考えたいと強く思う。
長考中の棋士のように。
追いつめられた武将のように。
400年後の世の中に役立つための新分野を切り開く、数学者のように。
「考える」という言葉を非常に安易に使っている人が多いと思う。学生に「考えてきたか?」と尋ねると、「考えましたが、ちょっと良い案を思いつかなくて」と言う。「じゃあ、悪い案を幾つか見せなさい」と言うと、きょとんとした顔で、「いえ、悪い案も思いついていません」と言う。「考えましたが、まだ、ちょっとまとまらなくて」と言うから、「では、まとまらないものを見せて下さい」と言っても、たいてい見せてもらえない。
こういうのは、僕の場合「考えた」とはいわないのである。
「いろいろ考えてはいるんですけどね」と言い訳する人には、その「いろいろ考えたものを見せてくれ」と頼む。ところが、たいていは、せいぜいあっても1つしか案がない。1つの案しかないのに「いろいろ」なんて言うなよ、と思う。1つでは選べない。これでは何を考えていたのか、問いたくなる。多くの人が言う「考えた」というのは、「考えようとした」のことらしい。同様に「悩んだ」も「悩もうとした」である。否、たとえ考えようとするだけでも、100時間くらい考えようとしていれば、なにかは実際に考えるだろうし、そして、考えれば、なにかは思いつくだろう。きっと具体的な案がいくつか出てくるはずだ。ほんの一瞬だけ考えようとしたくらいで「考えた」なんて言わないでほしい。
新しいアイディアを生み出すというクリエイティブな作業を想ったとき、どうも「落ち着ける環境でリラックスして〜」といったような文脈の、口当たりのいい意見が目立つ。ぼくもけっこうそれに踊らされていたところもあるんだけれど、ひとつ気づいたことがある。
眉間に皺を寄せて、体を縮み込ませて、非日常的な脳への血流を感じながら、フルスピードで考えるといった作業こそが、本質なんだと思う。考えて、考えて、考えて、考える。もうこれ以上考えられないというところを超えて、さらに考える。歩きながら必死で考える。ご飯を食べながら必死で考える。死に物狂いで考える。
そういう積み重ねがあってこそ、疲れ果てて少しリラックスしたときのヒラメキがある。気楽な議論の中で突然浮かび上がる、ものすごいアイディアがある。
浮かばないのは考えてないからだ。
以上、自戒の意味を込めて。精進しないと。
沢山の具体案を考えることは、無駄なようでけっして無駄ではない。採用されなかった案が、その人の将来の持ち駒になるからだ。
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