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キュートなレジの女の子に関する物語と暑い部屋の日曜日

起きたら部屋が暑かったので一時ごろから難波に行った。ハンジローと無印に寄った。難波パークスに行くつもりだったけれど、来週末に攻殻の映画を見に行くことを考えて避けた。あとはそのへんをぷらぷらした。帰りにまたグルメシティというスーパーに寄った。ピールとジンジャエールを買った。ぼくは実はシャンディーガフ(ビールとジンジャエールのカクテル)が大好きなのだけれど、恥ずかしくてあまり人には言えない。それを人に伝える理由も、まあ思いつかない。
シャンディーガフの魅力は四点ある。ひとつめは、ビールに何かを混ぜるというちょっとした背徳感。ふたつめは、背徳感の向こう側にある見た目の美しさ。みっつめは、麦芽とショウガという微妙に異なる二種類の苦みがギリギリの節度を保ちながら混ざり合い、しかしジンジャエールの僅かな甘さのために決して混ざり合いすぎるということがなく、それぞれの存在をスパイラル的に強調し合うという奇跡をやってのけるという点。さいごの一点は、安上がりということだ。ジンジャエールはウィルキンソンのやつがほしかったのだけれど、コカコーラの500ミリペットしかなかった。
部屋に戻ると七時前だった。やっぱり部屋は暑かった。

そう、そのときのスーパーのレジの女の子がすごくかわいかった。目から耳へのラインがキュートで、肌が杏仁豆腐みたいだった。女の子を目にしたとき、その子にまつわる物語が浮かぶ子と、そうでない子がいる。前者の女の子は大抵、魅力的だ。それは前者と後者でどちらが上か下かというわけではなくて、たとえば広末涼子なんてのは、自分から不幸に向かって行くようなオーラがある。しかし彼女は魅力的だ。そしてレジの女の子はやはり魅力的だった。
「……はいかだいたしますか?」
彼女が何か言ったがぼくには聞き取れない。
「え?」
「ドライアイスはいかがいたしますか?」
彼女の手にはトップバリューの安物アイス198円が握られている。ぼくは素早い笑顔で「結構です」と答えた。「結構です」という定型語が素早く口に出せるようになったのは、いつからだろう? ぼくは初め、意識してその言葉を使い始めたんだ。そういう言い回しがなんだかとてもスマートであるかのように思えたから。もうぼくの一部になっている。そういう言葉が、たくさんある。歳を取ったのだと思う。キュートな女の子に笑いかけることができるのなら、そういうのも悪くないなと思う。
帰ってきて、野菜炒めを暖めて白米と一緒に食べた。どうしてか、買ってきたばかりのビールは飲む気にならなかったので昨日の蕎麦焼酎を飲んだ。一番切羽詰まっているタスクであるところの、脚本書きを進めた。ぼくはどうやら最期の仕事で、監督兼役者というややこしい道を選んだらしかった。調子が乗らなかったので、二枚目のディスプレイでうる星やつらビューティフルドリーマを見ながら作業をした。ものすごく面白かった。シャワーを浴びた。香を焚いた。豚しゃぶとキャベツのサラダを食べた。ビューティフルドリーマーと関連するが、何度でも連続していいと思える日曜日だった。犠牲にしているものはきっとたくさんあるのだけれど、結局のところぼくらには明日や明後日や来週や来月がどうしようもなくやってくるので、それらはゆっくりと取り返していくしかないように思える。とりあえず手始めとして、明日の朝はコーヒーを挽くのがいいと思う。
「おやすみ。」とジェイが言った。「ねえ、誰かが言ったよ。ゆっくり歩け、そしてたっぷり水を飲めってね。」
鼠はジェイに向かって微笑み、ドアを開け、階段を上る。街灯が人影のない通りを明るく照らし出している。鼠はガードレールに腰を下ろし、空を見上げる。そして、いったいどれだけの水を飲めば足りるのか、と思う。— 『1973年のピンボール』 村上春樹
エアコンと本屋と枝豆の土曜日
ゴミ収集車の音で目が覚めた。十時頃だ。ベッドに入ったのは四時頃だった。二度寝したら十二時前だった。ヨドバシコムでエアコンの設置費用100円キャンペーンがやっていたので、一番安いやつを買った。四万九千円だった。洗い物をした。冷蔵庫に、寒天状に固まった骨付き鶏のスープがあったので、レンジにかけて食べた。食べにくかった。

研究室へ行こうと思ったが、人と顔を合わせる気分じゃなかったのでMacBookを持って図書館へ行った。OpenCVでキャプチャした画像をOpenGLのテクスチャとして表示する課題を進めた。斜め前では南アジア系の女の人が本を読んでいた。ヨドバシから電話がかかってきた。エアコンの設置工事の日時を決めるためだろう。ぼくの携帯はまた受話音量がゼロになるという呪われたモードになっていたので、なにも聞こえなかった。呪いの設定を解除して着信番号にかけなおすと、録音オペレータが番号案内をしていたので、電話を切った。図書館をでた。四時になっていた。
男前豆腐はいつも半分ほど余る。それをレンジでチンして水切りをした。フライパンにごま油を敷いて焼いた。ステーキにするつもりだったが崩れ始めたので、そのままスクランブルエッグ状にした。豆腐を崩しているうちに、これをオムレツにしようと思いついた。炒めた豆腐を容器に移して、フライパンに卵を2つ落としてかき混ぜた。少し固まったあたりで豆腐を入れて更に混ぜた。オムレツっぽくまとめようとしたけれど、油を敷きなおすのを忘れたせいで、卵がうまくまとまらなかった。とりあえずオムレツ風のかたまりにして皿に移し、ケチャップをかけて食べた。付け合わせに以前作った角煮をチンした。ふわふわでうまかった。でもケチャップはオムレツにしか使わないな、と思った。
一駅先のデパートまで自転車で行った。イヤホンが断線気味なのでヘッドホンをして行った。最近はヘッドホンをしながら自転車に乗っていると逮捕されると彼女に聞いたことを思い出した。ヘッドホンから流れるのは電脳空間カウボーイズで、プラダフォンは海外版はよく精錬されていたのにドコモがソフト側のユーザインタフェースを改悪してえらいことになっているとわめいていた。本屋とビレッジバンガードで一時間ほど潰した。

Y竹は同じ研究室の友人だ。帰り道で、偶然ぼくを見つけたY竹が車からぼくを「こば!」と呼んだ。Y竹の車の助手席には女の人が乗っていたので、ぼくはああ彼女がY竹のハニーなんだねと思った。「乗せてってよ!」と言ったら「やだ!」と言われた。次にあのカップルに出くわしたとき彼にかける言葉を考えながら帰った。

ついでにグルメシティというスーパーに寄った。ポン酢や塩や冷凍うどんを買った。あとそば焼酎を一リットルとフランジアの赤ワインを三リットル買った。自転車の前輪をふらふらさせながら帰った。日は半分暮れていた。帰ると八時頃だった。早速晩酌に入った。買ってきたばかりのうどんを、釜玉にして食べた。これはいまいちだった。うどんをだし無しでシンプルに食べるなら生麺を買ってこなくちゃいけないみたいだ。湯船にお湯を張って、本を読みながら一時間くらい浸かった。冷凍枝豆をチンして食べた。ビールが呑みたかったが、ビールも発泡酒も高いし、太りそうなので我慢した。そもそもビールは冷蔵庫にない。水曜どうでしょうを見ながら、夜の時間を過ごした。休日らしい休日だ。ぼくの大好きな休日だ。ちょっと文字に落とし込んでみようかな、と思った。
工学専攻学生的SF映画評論 第一部
冬に出した感覚基地のフリーペーパーに、タイトルの通り『工学専攻学生的SF映画評論 第一部』という読み物を掲載しました。
もうすぐ次のフリーペーパーを出すということなので、後悔公開しておきます。
おそらく情報工学、特にヴァーチャルリアリティ界隈を専門とする学生からみれば一般論ではあります。ただ、このような文章を映画館に配置し、全く関係のない人の目に触れさせるということで何か見えてこないかなあということで書いてみました。感覚基地のフリーペーパーは実際に近畿を中心とした映画館に置かせていただいているのですが、反応は果たしてわかりません。でもそこがウェブとは違う、アナログで一方通行なメディアの愉快さであり味であると最近は思います。
一方通行なメディアは必要ですよ。残さないと駄目です。僕がどこにどういった愉しさを感じているのか、今はまだ言葉になりませんが、僕が愉しさを感じているらしいということは確からしいと、僕は言っています。
ちなみに第二部を書く予定はありません。
以下、本文。
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『マイノリティ・リポート』(スティーヴン・スピルバーグ)でトム・クルーズが両手で操るジェスチャ式の入力システムは、インタフェース関連の研究分野に夢と希望とビジョンを与えた非常に意義のある作品であった。映画の内容はさっぱり覚えていないが、本来は実体を持たない情報という概念が球体という我々が実体として知覚できる形で提示されるシーンなども、MITメディアラボ・石井裕教授の提唱する「タンジブル・コンピューティング」を連想させる。事実、この球体で情報を表現するというアイディアは、関連研究の論文にヒントを得ているという。一方で、世の研究者に対する言い訳か、ジェスチャ認識用途と思われるデータ・グローブの存在が微笑ましい。トム・クルーズがグローブを装着するシーンが、この映画の一番のニヤけどころである。
また、スピルバーグの『A.I.』が見せたCG技術はロボット工学における「不気味の谷」という現象を見事に利用した、工学的にも面白い作品である。不気味の谷とは、人間のロボットに対する感情的反応に関する概念である。ロボットがその外観や動作においてより人間らしくなるにつれ、人間はロボットに対してより好感的になっていくが、ロボットの人間らしさが高くなり続けるとある時点でその感情が突然強い嫌悪感に変わる(谷に落ち込む)という現象が観測される。
『トイ・ストーリー』(ジョン・ラセター)のキャラクタはそこそこに人間らしいが本質的には玩具であるため不気味さを感じることは少ない。一方で、最近メディアへの露出が増えてきた、CG映画版『ファイナルファンタジー』(坂口博信)など20世紀末に製作された「人間らしい」ことが売りのCG作品を目にしたときの言いようのない不快感が、不気味の谷に落ち込んでいる状態である。『ロード・オブ・ザ・リング』(ピーター・ジャクソン)のゴラム、『ブレードランナー』(リドリー・スコット)や『イノセンス』(押井 守)におけるアンドロイドなど、不気味の谷という観点から見ると新たな知見が得られる作品は多い。不気味の谷現象のメカニズムについて、詳しくは各自検索して調べるように。
『攻殻機動隊S.A.C』(神山健治)においてタチコマがゴースト(自我・意識)と個性とを獲得する過程など、人工知能工学の研究者にとっては鼻血ものだろう。タチコマAIそのものが並列型マルチエージェントシステムを成しているだけでなく、複数のタチコマたちがネットワーク上の仮想空間で議論するシーンなどニューラルネットワーク(脳内の神経細胞が構築するネットワークの総称)の視覚化に他ならない。スピルバーグの『A.I.』が獲得した感情とタチコマのゴーストとの対比も面白いが、どうやらそろそろ紙面が尽きてしまうようである。
ぼくは感覚基地メンバーでありながら、情報工学を専攻する学生でもある。というか、実はそちらがメインである。『電脳コイル』(磯 光雄)や『攻殻機動隊』(押井 守)でおなじみの、現実空間上にディジタル情報を浮かび上がらせる技術のことを「拡張現実感技術(Augmented Reality: AR)」という。ぼくは今、学生としてこの分野の研究を進める些細なお手伝いをしている。控えめに言って、楽しくて仕方がない。SF映画作品をより楽しみたいのならば、工学を学ぶことをおすすめする。テクノロジーが見せる未来を愛するぼくたちの目標が、SF作品の現実化にあることは言うまでもない。
ウォツカと眞露とピンク色のカーテンと彼女
本屋に行った帰りに、ウォツカと眞露を買った。ライムジュースを買うのを忘れた。買ってから、もう半月の間に引っ越しの準備をしなければならないことなどを思い出す。荷物にしたくはないので、飲みきらなければならないだろう。まあ飲みきるんだろう。ああ、ライムジュースがあればなあ。
わずかな段差に歯を食いしばる。「君はいつも薄着だ」と言われたいつかのことを思い出す。自転車の前かごで酒瓶をガッチャガチャ鳴らせていると、まるで自分がどこかへ向かっているような気分になる。自分がどこかへ向かって行けるような気分になる。ローソンの青がぼくを突き刺し、習慣のような自然さで道路の対岸に目を向ける。
駅前のローソンの前を通るとき、ぼくはいつも道路を挟んだ向かい側のアパートの、その二階のベランダをちらっと見る。ちらっと見るたびに、ちらっと見た自分に気づき、少し楽しい気分になって、口を閉じて自転車を進める。薄いピンクのカーテンが部屋の照明に透ける光景をバックに、ベランダで煙草を吸う彼女を見たことは、結局一度だけだった。
☆
友人がローソンに入っている間、外でぼんやりしていたぼくは、道路の対岸にあるアパートの、その二階のベランダで煙草を吸う彼女を見つけた。部屋からの逆光でシルエットだけになった人影は、ぼくにはすごく、ものすごく魅力的に見えた。とにかくぼくは彼女を見ていて、そして彼女の方もぼくを見ているという妄想があり、それが妄想だと気づきながらも、それを確信に変えることができるほどの熱量がそこにはあった。30秒ほどだった気もするし、5分くらいだったかもしれない。長いと言うには短すぎ、短いというには長すぎるその間、ぼくは彼女と何かを共有したような気になった。ぼくらは妄想の中で素敵な日常を過ごした。花畑の中だって踊り続けた。彼女が口元へ腕を運び、そしてまた戻す。ワンテンポ遅れて、白いモヤが宙を舞う。
しかしローソンから友人が出てきてぼくに「さあ行こう」と言う。ぼくは、対岸のアパートの、ピンクの部屋の彼女に「バイバイ!」と言って手を振る。友人がぼくに「知り合い?」と訪ねる。「初対面」とぼくは答える。笑いながら。彼女が気怠そうに手を振る姿が目に入る。彼女が気怠そうに手を振る姿が目に入る!彼女が!気怠そうに!手を振る!
手を振った。
ああ、ぼくは死ぬんだなと、そのとき思った。
☆
あれはもう四年ほど前のことで、そこから派生したいろいろな妄想がぼくを形作りながらも、あの部屋にライトが付き、透けたピンクのカーテンが人影を照らすようなことは、結局一度もなかった。きっと、もういないだろう。そしてぼくも、半月後の引っ越しのことを思い出す。ガチャガチャとなる酒瓶がハンドルに力を加えさせる。ウォツカを何で割ろうか考える。気を利かせたシャッフルモードの iPod がゆらゆら帝国の『ハチとミツ』をターンテーブルに載せる。
偶然目と目で通じ合ったまま そのまま今でも夢中さ
君の微妙な指の動き 君の異常な白い唾液
空けた口早く閉めなよ 濡れた指早く拭きなよ
揺れるカーテンの裾が気になるぜ とても気になるぜ すごく気になるぜあっ今動いた あっ今止まった あっ今気づいた あっ今笑った
あけてみようか 君の頭 あててみようか? 今の気持ち- ハチとミツ / ゆらゆら帝国
☆
そういう体験が万人にあることに気づき、ぼくが『人にはそれぞれ事情がある』という真島昌利のアルバムタイトルを座右の銘に据えることを決めたのはもうしばらく後の話。
過去の話/犬の話/初恋のmixi
宣伝
2/8, 9 は感覚基地上映会です。ちょうたのしみ。
2/29 に 11月ごろ撮った主演作品『自慰ループ』(ビジュアルアーツ大阪 卒業作品)が上映(予定)です。
3/3,4,5 のどこかで、年末年始に撮ったCO2高木作品の『都会の夢』が上映(予定)です。
映像関係が充実しすぎて怖い。
ぼくは情報工学専攻です。
どういう加減か、最近は過去のことを考えることが多いです。
恩地くんの話を書いた影響のような気がしています。あの記事は書くのに三日くらい、時間で言うと三時間くらいかかったんですけど、それを終えた直後にぼくが思ったことは「ああ、ぼくの人生に関わった人を全部こんな感じで書いていったら素敵だろうなあ」ということなんですね。そんなことはしませんが。
でもぼくには、そういうものを読んでみたいという気持ちもあるんですね。
たとえば「人生に影響を与えられた人」って誰だろう
みたいなことをぼんやり考えていました。仮に七人だけ挙げろとするならば、小田くん、マイケル、林くん、松尾、橋本くん、千賀さん、emaさん、となります。ニックネームが混じっているのでちょっとしたカオスですね。とりあえずこの七人になるかなー、などと考えています。だからどうなんだ!という結論が欲しいわけじゃなくて、なんというか、そういうのを明らかにしてみたいっていう気持ちがありました。
自分の作り方を知りたいのかもしれません。自分に何が起きたのかを知ってみたい。あるいは、二十歳を過ぎると人間はこういうことを考えるようになるのかもしれません。上の七人については、そのうち何か書くかもしれません。実際には、それぞれの名前はそれが指す人格だけを表しているのではなくて、たとえば『千賀さん』というのは、彼を中心とした映像関係のグループをひとつの引き出しとしたときの取っ手としてのラベルなんですね。例えば『林くん』というラベルのついた引き出しには10人くらい入っています。
実家を離れるということも多少影響しているのかもしれません
ぼくは春から一人暮らしになります(大学院の寮ですが)。まあぼくにも人並みに実家への、特に自室への思い出というものがありまして、超インドアなぼくにとってはそれは他人のそれよりも強いのかもしれません。これを書いているPCにはああいう思い出がありますし、机にはあんな思い出があります。ベッドや本棚や、壁にまで思い出があります。
そういうものから離れることが寂しいという感情はありません。世話になったなあといった感じでしょうか。ペットも長い間一緒にいると、こういう感じになりますよね。秋頃にうちの犬さんが老衰で亡くなりました。十年以上一緒にいたのですが、悲しいなあとかそういう思いはあまりなく、ありがとうとかお疲れ様とか、そんな感じになりますね。あれは新しい発見でした。もっと散歩に行ってやればよかったなあ、と思います。
そう、犬の話も書いておきたいですね。十年間の習慣は消えず、ぼくは未だに玄関の扉を開けるとき、犬の小屋があった位置をチラ見します。様子を見に行くとか、水がなくなっていないか確かめに行くのではなく、チラ見なんですね。チラ見だって十年間続ければ立派な習慣になるんですね。そのうち気が向いたら書きましょう。
これを書き始める前に、一年ぶりくらいに初恋の相手のmixiを見に行きました
なんとなく、としか形容できない現象です。ぼくは勝手に「人生において初めにそれらしく盛り上がり、かつそれなりのイベントや語り所もある恋の話題」を初恋と定義しています。その定義に習うとぼくの初恋は16歳に始まって17歳で終わります。これについてはまだしばらくは書かないと思います。初恋の相手がmixiにいる、なんていうのも、新世代らしくていいじゃないですか。
まあとりあえず彼女は元気っぽかったので、よかったのです。
恩地くんの話。あるいは若き日のぼくがなぜブログを書くようになったのか。
恩地くんの話をします。
恩地くんとぼくは高専時代の同級生です
15歳のころ、高専一年生のころに恩地くんとぼくは出会いました。
恩地くんと初めて喋ったときのことを、ぼくは全く覚えていません。
入学当初というものは出席番号で席順が決定されることが多く、その席順において近くの席に座っている人たちがおずおずと交流を始めていくような感じだとおもうのですが、恩地くんとぼくは特に出席番号が近いわけでも席が近いわけでもなかったと記憶しています。
当時の恩地くんも、当時のぼくも、人付き合いを始めるのが苦手で、誰かから話しかけられるのを待っているようなタイプでした。そんなぼくらがどうやって友達になったのか、今となってはもう、恩地くんに尋ねることはできません。
卒業アルバムの始めのほう、一年生のときの写真がまとまっているページには、恩地くんが写っている写真があります。
その恩地くんの顔は、ぼくの記憶と一寸も違いません。
恩地くんとの対話
恩地くんとぼくが会話するときは、そのほとんどが1対1の会話でした。でも恩地くんに友人が少なかったのかというとそういうわけでもなく、ぼくと仲の良い友人グループに属している、という感じでした。
恩地くんはパソコンを自分で組み立てたりする人でしたから、ぼくの友人とCPUのクロックアップやメモリの価格について、わけのわからない話をしているのを見たことがあります。しかし、どうしてか恩地くんがぼく以外と話をしている姿はぼやけていて、あまりうまく思い出すことができません。
恩地くんとぼくが何の話をしていたかというと、それもやはり記憶があいまいです。コンピュータの話が多かったと思います。恩地くんはビルゲイツが好きで、彼の携帯のメールアドレスはそれをもじったものでした。
そういえば、恩地くんは最後まで携帯のアドレスを変更しませんでした。そこに何かこだわりがあったというよりは、単に機会がなかっただけなのだと思います。
恩地くんの友達
五年生(20歳のころ)になっても、半年に一度ほど恩地くんの話題が出ることがありました。
あるとき、当時からの友人から、恩地くんと一番仲の良かったのはぼくだったというようなことを言われ、とても驚きました。ぼくとしてはそんなことを考えたことは一度もありませんでしたし、ぼくが恩地くん以外の友人とも楽しくやっているように、恩地くんもぼく以外の友人と楽しくやっているものだと思っていました。
実際にはそうでなかったのかもしれませんし、やっぱり友人の思い違いなのかもしれません。
わざわざこんなことを書いているぐらいだから恩地くんとぼくはすごく仲が良かったのだと思われるかもしれません。しかし実際のところ、ぼくらが話をする機会はそう多くはありませんでした。
恩地くんと自転車とシャツ
恩地くんは毎日自転車で学校に通っていました。
ある日教室で「毎日自転車で長い距離を走っていると、ここの毛がなくなる。チクチクする」と言って、制服のスラックスを無理にたくし上げ、太ももを見せてくれたことがありました。
また、恩地くんは普通の制服のポリエステルの入ったシャツではなく、少しくすんだ白をした綿のシャツを着ていました。
ぼくは恩地くんが綿のシャツと黒いスラックス以外の服装をしているところを見たことがありません。
もしかしたら学園祭や部活で一度くらい見たことがあるのかもしれませんし、冬はシャツの上に詰襟を羽織っていたはずなのですが、それはきっと印象に残らないようなものだったのだと思います。
恩地くんはいつも綿のシャツでした。
彼の哲学
恩地くんは授業のノートを、無地のルーズリーフに取っていました。当時のぼくには、それがとても格好良くみえました。
あるときのぼくは、授業のノートをシャープペンシルではなく径の細い黒ペンで取っていました。恩地くんはそれを見て「いいねそれ」と言い、彼自身も黒ペンでノートを取るようになりました。
ぼくはそのことがとても嬉しく、誇らしく思ったのを、とても鮮明に覚えています。
恩地くんが勉強が出来る方だったかどうかについては、よくわかりません。
試験が三科目あるような日でも、「俺は地理だけは完璧。なぜなら試験範囲の教科書を丸暗記した。他はやっていない」と言ってしまうような人でした。
そのときの恩地くんの試験結果についてはわかりません。
ぼくは実は恩地くんは丸暗記なんてしてなかったんじゃないかなと思っています。
いなくなった恩地くんと残された彼のシャツ
二年生の夏ごろから、恩地くんが学校を休むことが多くなりました。
理由は知りませんでした。友人たちも知りませんでした。
恩地くんの椅子には、彼がいつも着ている綿のシャツがかかっていました。
それはいつの間にか、彼の机の中に押し込まれていました。
最前列の席は学生に人気がないので、必然的に恩地くんの席は教卓の前に配置されたりしていました。
後ろの方の席からは恩地くんの机の中が見え、その中に綿のシャツがくしゃくしゃに押し込まれているのが見えました。
後日の話では、当時の友人たちは机の中に押し込まれた恩地くんのシャツについては良く覚えているようでした。
ぼくらは二年生になり、三年生になりました。
恩地くんは三年生にはなりませんでした。
明らかに出席日数が足りていなかったので、ぼくらはやっぱりなと思いました。
彼のシャツがどうなったのかはわかりません。
もうひとつ、恩地くんの残したもの
一年生の五月頃、恩地くんとぼくが交流を持つようになって一ヶ月ほどしたころのことです。
恩地くんもぼくもインターネットに落ちている面白いことが好きだったので、URLを貼ったりローカルな話題をまったりと楽しむ目的で、レンタル掲示板のアカウントを取りました。
恩地くんは『XEON』というハンドルネームでした。XEONとはインテル系CPUの名称で、その読み(ジーオン)が自分の名前をもじったものに近いから、と彼は言っていました。
ぼくの当時のハンドルは、『まーもー』だったと思います。
その後、掲示板へのリンクを貼ったホームページが作られ、日記、テキスト、リンク集などの定番のコンテンツが加えられていきました。2001年のことです。
掲示板には他の友人たちが加わり、妙な縁が形作られていきました。
ぼくが初対面の人に「『まーもー』の人かー」などと言われるようになったころ、恩地くんは次第にフィードアウトしていきました。
ぼくはとりあえず、何度か途切れたり、ブログを何度か移転したりしながらも、書き続けてみました。
それはけっこう楽しい行為だったので、七年ほど続くことになりました。
恩地くんのカラオケ
そういえば一度だけ、学校帰りに恩地くんとカラオケに行ったことがあります。
恩地くんは、低い声で、マジンガーZを歌っていました。
そのときのことはもうほとんど思い出せないのですが、学校帰りだったということだけは覚えているので、
きっと恩地くんはあのときも、白い綿のシャツを着ていたのだろうなと思います。
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